疾と粋事

電子媒体に引き裂かれ落命

私の死因はあなたじゃない方がいい

 

コロナウイルス感染症が爆増しているなかで、家族内や職場など身近な場所での感染の話を聞くたびに、それで亡くなった方のご家族やパートナーからの話を見聞きするたびに、思う、というか思い出すことがあります。綺麗にまとまった読みやすい文章には全然ならなかったけれど、ぼんやり浮かぶことたちを自分のためにも書き留めておきたくて、書きました。

 

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身近な感染と病気と死のことを、見聞きするたびに思い出す、それは祖母が亡くなった時に「あなたのせいだ」と言わんばかりに責められた母の姿だったり/友人が亡くなった報せを受けた時に(私のせいかもしれない)と思った、これは数年経った今でも思う、自分の姿だったり/最近熱を出した私(※胃腸炎)に「きみはコロナだって、自分が無症状で感染したものをうつしたんだって、ごめんって思ってた(思い込んでた)」と言った友人のことだったり、

 

 

/母が持病の手術のため1週間ほど入院することになり、その間、祖母は施設に入所することになった。退所後のずいぶん足のおぼつかない祖母を見て、その時に初めて私たちは、施設では転んで怪我をするのを防ぐために、一日のほとんどを車椅子で過ごしていたことを知った。

そこから祖母が亡くなるまではそんなに長くなかった。葬儀のあと、親族の一人が母に「あの時あなたが手術なんかしなかったら、入院しなかったら、」と言った。「急に歩けなくなってしまって、かわいそうに、家でみてあげていたらよかったのに、」

祖母は亡くなる日の前日も、好物の蒸かしたさつまいもやヨーグルトをよく食べていたと母から聞いていて、葬儀の前にも母と私は、「足が弱ってからもずっと、話すこともしゃんとしていたし、ずっと食いしん坊だったし、最期まで元気だったね、」なんて話をしていた。それでも、違う未来のことを、違った選択のことを、考えなかったわけじゃない。多分、母も。

 

 

 /友人が亡くなったと知った後、考えたこと。

あのとき、わたしが電話を取り損ねたから?あのとき、「またね」って言ってるのに「じゃあね」をかぶせてくる友人を引き留めなかったから?最後に会ったとき、私がした忘れ物をわざわざ届けに来てくれたけど、そのまま預かってもらっていたら、君は私の帰りを待っていてくれた?それとももっと前、無理やりにでもどこか、私じゃないもっと頼れる大人に繋いでおくべきだった?せめて陽のあたる、東南角部屋の私の家に、引きずってでも連れて帰るべきだった?

もっとできること、あったんじゃないだろうか、なにか、どこで間違えたんだろうか、

 

 

/高熱を出した私に「風邪だとしたら様子が変だし、コロナなんだろうね…」とかなり後ろ向きなことを言う友人に、回復したあとで話を聞いたら、「(その前の週に仕事で会ったため、)きみはコロナだって、自分が無症状で感染したものをうつしたんだって思い込んで、ずっとごめんって思ってた」と言われた。私はというと、病院にかかり検査を終えるまでの間ずっと(同僚も友人も、誰も調子悪くしてないだろうか…うつしてないだろうか…ていうかこれは何の症状なんだろうか…ごめん…)と思いながら怯えていた。

 

 

 あの時ああしたらよかったのに、というのは現実には全然意味がない、あの時ああしなければ、というのも同じ、起こったことは返ってこない、わたしたち、それは良く分かっているはずなのにね、

 

 忘れる、というのはすごい能力だと思う、怖いのもつらいのも悲しいのも、忘れていかないと生きていけない、ずっとそのままの温度で、生々しい手触りで覚えていたら生きていけない、

それにしたって私は、まだつい最近、高熱が出て病院にも行けないまま苦しんだ中でありとあらゆる(おなかが痛いときと熱が高いときにだけ現れる)神に謝ったのに、あの時確かに「怖い」と思ったはずなのに、たった数週間で「大都会にある弊社にこれだけ顔を出しているのに…?」「なぜ友人にすら会えないのか…」という気持ちになるのはちょっと、いくら何でも忘れっぽすぎやしないか、

 

それでもまだ、コロナの疑似体験のような1週間(1週間で済んでいるので全然、本当にコロナにかかった人からしたら何でもないと思うのですが確かに怖かった、)を過ごして、より一層人に会わない生活をしているし、心が折れそうになったときは

「せめて愛するひとびとに会うのは控えようかな」

という友人のことばを読み返して、噛みしめて、とりあえずワクチン2回接種が終わるまで…終わった後のことは終わってから考える…自分のための区切りがないと心がだめになる…と思いながら過ごしています。

 

 

多分、いずれ死ぬ。多分いずれ死ぬけど、そのきっかけはあなたじゃない方がいい。私はいずれ死ぬけど、私が死ぬ時には友人や親しい人たちに「自分のせいかもしれない」という気持ちになってほしくない。私はあなたの死因になりたくないし、あなたは私の死因にならない方がいい。

 

私のせい”かもしれない”、じゃないくらい断定されるかもしれない、きっともっとつらいと思う。

 

「あの時ワクチンを打たなければ、」「あの集まりに顔を出していれば、」と思う未来の可能性も存在するわけで、結局どちらに、何に納得がいくか、という話になってしまうのかな。

そうだとして、この場限りでもいいから、今と未来で考えが変わってもいいから、今考えたなかで納得のいくものを選びたいと思う。せめて愛するひとびとに会うのは控えながら。